こんにちは。
今日は犀角書いていきたいと思います。
犀角を解析するに至った背景はこちらにあります。
hyperconnection2012.hatenablog.com
55.相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
ブッダの生きた時代には、すでにアーリア人の信仰をまとめたヴェーダと言われる聖典があったようです。そして紀元前5世紀頃にはヴェーダ最終期で、ウパニシャッド哲学という哲学的な考え方が広まっていたようです。
その哲学的な考え方というのは、世界の根源を語るブラフマンと、輪廻の主体である自身アートマン、そしてこれらが一致する(梵我一如)ことで解脱に至るという考え方。
おそらくこの相争う哲学的見解というのはそのウパニシャッド哲学の解釈のことを指しているだと思います。そして、ブッダはこのアートマンについて否定的な発言をしているので、それが哲学的見解を超えという表現につながっているのでしょう。
また智慧は仏教用語で、現象の裏にある原理をみる心作用の意味です。
なので、哲学的な理解を越えて悟りに達している人は「私は悟りを獲得した。もう他の人に指導される必要はない。」とわかって、自らの道を行け、といった意味合いでしょう。
nTechからみたら、人間の考え感情など、物の見方は全て観点の結果物であり、その人の思い込みであると言っています。だから何かを教えてもらったとしても、それは絶対ではなく一つの観方、その人から見たらそうであるということに過ぎません。
そしてさらに言えば、その人の宇宙はその人しか見たことがなく、誰とも1分1秒も共有することができない蚕の繭の中にいる状態なのです。その状態では他人に教えるどころか、その前に自分がまず知らなければならないことがありますよね。
だから悟ってしまったら他の人に教えてもらう必要はない、自分の独立した意思決定に従って歩めと言っています。
56.貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
貪るは欲深く望むこと、詐るは騙すこと、渇望するは喉が渇いて水を欲しがるように必死に望むこと。また覆うというのは、いろんな一般的にいろんな解釈がされているようですが、煩悩に覆われている状態を言っているのかなと思います。
濁りは穢れ、迷妄は道理が分からず誤った判断をしている様。妄執は迷いによる執着です。
だから、欲深く望むことなく、相手を騙すことなく、煩悩に支配されることなく、不浄と誤った判断をとりのぞいて、迷いによる執着から自由になって、自分の道を行け、といった意味でしょう。
これは人間だったら誰しもが繰り返している、煩悩から自由になれということですね。nTech では目で見て、耳で聞いて生きていては終わりなく考えが出て苦しみが絶えないと言っています。
目で見て、耳で聞いて生きるというのは5感覚脳で生きるということであり、脳の
①部分だけをとる
②違いだけをとる
③過去とつなげてとる
④有限化してとる
の4つの癖に支配されてしまいます。そうなると、考え感情が止めどなく溢れ、さらには相対比較が始まり、さらなる苦しみへと発展していってしまいます。
では、全世界において妄執のないものとなるにはどうしたらよいのかというと、5感覚脳で生きることは1分1秒も自分の大切な人とも、見ている世界を共有できない究極の絶望を通過することです。一度その究極の絶望をしてしまえば、二度とその脳の癖の支配にハマることはありません。
脳から自由になって真理そのもので生きなさい。それを案内しているのが nTech なのです。
本日もありがとうございました。