令和哲学では観点固定という言葉をよく使います。
過去の強烈な出来事に対するイメージが深く刻み込まれ、何気ないことでもそのような出来事に近いことが起こればその時のイメージや感情、考えが暴走するかのようにコントロールができなくなる。これが人間がいつもやっていることであり、観点固定からくる苦しみでもあるのです。
強烈な出来事というのは、例外こそあるものの大体は0歳から6歳の間の、多くは母親との間に起こったショックな出来事で、そのときに自分自身のアイデンティティを自分で決めつけてしまうのです。そしてそのアイデンティティを握りしめたまま(観点固定したまま)大人になるので、いくつになっても似たような出来事と遭遇すると、イメージ、感情、考えが意図せず湧いてきてしまうのです。
それで人間関係や仕事などに支障をきたすというような話をよくしますが、今回はそのようなポイントではなく、もう少し違った角度で話をしていきたいと思います。
今、ショックな出来事を中心に話をしましたが、実はその出来事と似たような出来事が起こらなくても、あなた自身はどっぷりと生まれ育った環境の奴隷になっているということ。
言葉を変えるなら、日常の毎瞬毎瞬は出来事の連続です。
ショックを受けた出来事でなくても、何気ない出来事と無意識でどう向き合うかは生まれ育った環境によって、自分の意思とは関係なしに全て決定されてしまっています。
だから
職場で明るく振る舞って人との関係性が良好な人も
自分から仕事を積極的にこなす人も
家事育児を上手くこなす人も
みんな奴隷状態。
もっと言えば
生まれ育った環境から空間的に経済的に独立して、掃除、洗濯、料理、そして職場の仕事、全てを一人でこなしていても奴隷状態。
別にできてるんだからいいじゃないって思うと思うけど、それは自分の決めつけた範囲の中であなたはできていると思って満足しているだけ。自分で決めつけた範囲の外の世界をあなたは知らない。知らず知らずのうちに自分で境界線を引いて可能性を殺してしまっているのです。ものすごい能力を持っているにも関わらず、だ。
じゃあ、だからと言ってその自らの可能性に気がつけば、奴隷から解放されるのかというと、それも違う。
外の世界があることを知ってそこに向かってアクションしたとしても、そのアクションは元の自分が決めつけている範疇に留まる。どう足掻いても、コンクリートの壁を押し続けているかのように手応えがない。必死にアクションしても、ここぞという時に自分の可能性を潰していく現実を、指を咥えてみているしかできない。必死に頑張っても意図しない現実に蹂躙されるのみ。それが奴隷であり観点固定というもの。
じゃあ
どうしたら奴隷から解放されるのか。
どうしたら本当に自分の決めつけた範囲の外の世界に行けるのか。
その答えは、あなたにとっての当然を破ること。
令和哲学では存在が存在することの当然を破る案内をしています。
この当然が破れれば、例えば母親がいてくれることの当然など、それよりレベルの低い当然は全て破れるので、奴隷からは完全に解放されるでしょう。
でも、その令和哲学に本当の意味で出会うために、破らなければならない当然があることも忘れてはならない。
体が出会ったからと言って、令和哲学に出会ったと思っていては大間違い。心の底から令和哲学と出会わないと、令和哲学が本当に案内したい世界とは出会えないのです。
だから、いかにして令和哲学と出会うのか。それもまた非常に重要なことなのです。
今日はブログを書きながら、それを自らの心に刻みたいと思います。
本日もありがとうございました。