哲学の用途機能とはなんでしょうか。
タイトルにもあるように簡単に言えば「自分探し」のためのもの。
ここでいう自分とは体の自分ではなく本来の認識主体を指しますが、個人的にはこの「自分探し」という言葉は多くの人、特に若者には関心のある言葉ではないかなと思います。だから今日は、哲学の用途機能は「自分探し」と言いつつ、それが何なのか書いてみたいと思います。
まず大前提、人間は実は誰しもが確固たる認識土台(=本来の認識主体)を探し求めています。
その認識土台を獲得したいがために科学の進化があり、それによって身の回りの認識対象の開発開拓が進められてきました。そして最近では身の回りに留まらず、自分たちの体の中、血管や脳の中など、開発対象が今までは認識主体だと思っていた自分たち自身の中に移ってきています。
しかしながら令和哲学からみれば、その科学の開発開拓の対象はどこまでいっても観点の中のものであり、認識対象に過ぎません。それは突き詰めて明確にするなら、この現実の中にあるもの全ては、体の自分さえも含め、認識対象に過ぎないということです。
では、本来の認識主体とは何なのでしょうか。
それは以下のイメージで表現できます。
認識対象からスタートすることは観点の中からスタートすることであり、1つの観点に固定されたところからスタートすること。(=1)
観点の外があることを知って観点のない世界と出会うこと。(=0)
犬の観点、猫の観点、人間の観点など無限にある観点になりきること。(=∞)
この1、0、∞を自由に往来できる
0=∞=1
このひとつの動き、これが本当の認識主体、本当の自分なのです。
この本来の自分と出会うこと、それが哲学の用途機能である「自分探し」のゴールなのです。
令和哲学では、そのゴールのさらに先、本来の自分を知ったところからこの現実の中でどう生きるのかまでを案内します。
だからこそ科学技術の終焉の先に来る認識技術と言えるのです。