今日も犀の角の解析やっていきます。
解析をするに至った背景はこちらからご覧ください。
hyperconnection2012.hatenablog.com
41. 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
遊戯と歓楽はほぼそのままの意味で、遊びと快楽でしょう。そして、情愛という言葉はあまり使わないですが、親しい相手に対する持続的で深い愛を意味します。厭いながらは、今でもよく使いますが、厭う、すなわち嫌がるという意味です。また子というのは、そのまま子供という意味もありますが、人という意味でも使われるようです。ここでは前後の文脈からして子供の意味で解釈していきます。
だから、仲間の中にいたら遊びや快楽がある。また子供たちに対する愛は非常に深い。愛しい人と別れることを嫌がりながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
だいたいそのまんまですね笑
ここでポイントなのが愛しい人と"別れる"ことがどういうことなのかです。これまでの教えだと、友人、子、妻など親しい人に対する想いは苦しみの根源だと言っているので、この"別れる"は苦しみのもとになるのなら単純に関わりを断って独り自分の道を行くのがよいと解釈できます。
一方でnTechからみたら、その"別れ"は精神的な独立を意味するので、肉体的に仲間や子供が側にいても何ら問題ありません。そしてその精神的な独立とは、脳では認識不可能な世界を認識できるようになること、理解不可能な世界を理解できることです。そうすることで止め処なく生まれる考え感情を統制することができ、仲間、子供を愛しながらも自らの道を歩むことができるのです。
42.四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
次です。こちらは書かなくてもだいたいの意味はわかると思いますが、四方は周囲ぐるり、赴くはある場所に向かうことです。害心は人に危害を加えようとする心です。
お釈迦様の生き様について少し触れると、王族にて裕福な生活をする中で生老病死について深く問題意識を持ち、その解決のため真理を求めて全てを捨てて修行に出たとのこと。最初は師匠を求めていろんなところを訪れたようですが、いずれも限界を感じ断念、自ら苦行を始めたと。ところが裕福な生活同様それにも限界を見出し、最後は瞑想を通して悟りに至ったとのことです。
この詩文はどういったシチュエーションで書かれたものかはわかりませんが、お釈迦様の生き様を見る限り、師匠との関わりも断ち切って独りで悟りに至る過程で、経験して気がついたことを教えとして説いているものではないでしょうか。
nTechから見れば、一見不可能と思えるような目標を掲げ、そのビジョンを具現化するために、世界のどこでも行き、私利私欲を捨て、今あるもの以上のものは要求せず、苦しいことにも屈せず、何にも怖がることなく、ただひたすら走る。まさにnTech創始者のNohJesuを語っているかのように思えました。
私たちに投影するなら、NohJesuほどではなくとも、上記のようなことを心がけることを表現した詩文なのだと思います。
本日もありがとうございました。