しばらくぶりに帰ってきました犀の角。それでは今日も行ってみましょう!
解析をしようと思った背景はこちらです。
hyperconnection2012.hatenablog.com
49.このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起こるであろう。未来にこの恐れのあることを察して、際の角のようにただ独り歩め。
これは黄金の腕輪2つをひとつの腕にはめたらぶつかり合うという48.の続きになっていますね。饒舌はよく喋ること、いさかいは言い争いの意味です。
だから、黄金の腕輪がぶつかり合うように二人でいたら、よく喋って言い争いも起こるだろう。この先にその恐れがあることをわかって、犀の角のように自らの道を行け。といったところでしょう。
nTechでも、人間は1分1秒も自分のATフィールド、蚕の繭から外に出たことがないが故に、自分の見る世界を最も親しい人とさえ共有できないと言い切っています。目の前の囚われを解体しないまま人と会って話すから、喋れば喋るほど摩擦衝突が起こってしまうのです。
だからこそ、自分のATフィールドを解除すること、蚕の繭から外に出ること、目の前の囚われを解体すること。そうしたときに、脳では認識不可能な世界と出会うことができ、言い争いの種を取り除くことができるのです。
50.実に欲望は色とりどりであり、甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を撹乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
甘美とは心地が良く快いこと。種々はいろんな種類、撹乱は掻き乱すことですね。患いは「わずらい」ではなく「うれい」と読み、心配すること、思い悩むことを意味します。
だから、本当に欲望は様々であり、心地良く、楽しく、いろんな形で心を掻き乱す。欲望の対象には、この心配があることをみて、欲望に惑わされることなく自分の道を行け。と言ったところでしょう。
この詩文は、この犀の角の中で、以前に紹介した明確な欲望シリーズにあたる、35、36、38、41のように、欲を満たせる環境にいれば居心地がいいし楽しいということを再度表現していると思います。そして、それはお釈迦様が王宮で暮らしていたときの薄っぺらい豊さと同じようなものでもあるので、欲望の対象にはこのような心配があると否定的に捉えているのだと思います。
nTechでは欲望に支配されることは、体人間で生きて条件反射で気分が上がったり下がったりして、それが悲惨・残酷・屈辱であることだと表現しています。たとえプラスの感情であったとしても、それに縛られることは苦痛なのです。
その限界を突破するために、脳では理解不可能なことを理解して脳を休ませること。それが犀の角のようにただ独り歩むことと繋がっていくのです。