宇宙水準点

宇宙水準点〈世界基軸教育と令和哲学〉

令和哲学者 NohJesu と共に歩む令和維新の道〜世界基軸教育によって人類がワクワクでひとつになる〜

世界基軸教育を発信する背景①

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今日は私が世界基軸教育を発信するに至った経緯について書いていきたいと思います。

 

■■■ 1.幼少期から子供のころの問題意識 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

私は子供の頃、学校や社会、世界の人間に対して子供ながらに真剣に考えていたことがありました。それはなぜ人間は互いに傷付け合って刺し合って、愛と信頼をもってひとつになれないのかということでした。

 

例えば学校では周りを見渡せば、暴力を振るう人、振われる人、それを見て見ぬふりをする人、そしてそもそも関心のない人など、たったクラス40人の仲間達でさえバラバラの状態だと思っていました。そして、先生たち大人でさえも感情的になったり、先生同士の不和など関係性の摩擦衝突にフォーカスしていました。

 

また、社会においては例えば国会中継などを見ていると、国のトップの人たち同士が言い争っていたりしていました。当時、子供の私にとって衝撃的だったのは、争いの結果、コップの水を相手にかけていた人がいたことです。大の大人が公衆の面前で、他人に水をかけるというのは一体どういうことなのかと思ったことを覚えています。

 

そして世界においては終わらない戦争です。国同士が互いに自分の利益を確保するためにけん制し合い、度を過ぎると戦争に発展、殺し合いが始まります。

 

このように人間は子供も大人も個人も組織も摩擦衝突を繰り返して、愛や信頼の余地などはないと私は考えていました。どうしたら私たち人類は本当に愛と信頼をもって生きることができるのか。このことについて子供ながらにさまざまな考えを巡らせた結果、この問題を解決するには人間が人間でなくなる必要があるという結論に至りました。

 

そして、人間が人間でなくなることを具現化するなどということは、だいぶ無理があると当時の私は考え、それ以上考えることをやめてしまいました。

 

■■■ 2.祖父母の他界 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

私の祖父は、大正15年生まれで第二次世界大戦のころは20歳に満たない青年でした。当時そのくらいの歳だったということは、誰もが知る通り、次々に戦場の最前線に出て戦う若者世代の人間だったのです。

 

しかし、祖父は体に問題を抱えていたために戦場へは行けず、戦況を家で見守るしかできなかったそうです。生前、祖父から聞いた話ですが、自分も早く戦争に行きたいと家にいながら意気込んでいたとのことでした。

 

時が過ぎ、祖父が戦場へ行かないまま終戦を迎え、日本は高度経済成長の時代を迎えます。

 

祖父はその波に乗って、村の電気屋を始めました。時代が時代だったので飛ぶように商品が売れ、孫世代の私にまでその恩恵が回ってくるほど、経済的に何不自由ない生活をしていました。

 

しかし問題は、そんな彼がその電気屋をたたんでから始まったのです。

 

店を閉じて時間が余るようになった祖父は、当時高校生くらいだった私のところへ来ては、しきりに「年寄りははよ(早く)死んだらええんや」と言うようになったのです。しかもそれを、死んだ魚のような目をしながら無気力に、しかし自己否定の部分だけは確信した雰囲気で言うのです。本当に暇さえあればそれを繰り返していたので、正直なところ、私はそんな祖父を快く思っていませんでした。

 

そんな風にしながら時は過ぎ、祖父は風邪をこじらせたと同時に衰弱死という形で亡くなりました。お葬式では、地元の葬儀場で一番大きな部屋にも入りきれないほどの方が参列に来てくださりました。葬式というのはその人の人生の集大成であり、生き様、人格が如実に現れる場でもあるので、祖父はそれだけの人生を歩んだんだなと、当時の私は特に深くも考えずに思っていました。

 

そして時が過ぎ、今度は祖母が亡くなる時のことです。

 

祖父母に対して特に何も感じていなかった私ですが、物心のつく前からあった彼らの創る環境が完全に消えるその瞬間になって、私は初めて祖父の生前の生きる姿勢態度を、雷に打たれたようなショックとともに理解したのです。

 

電気屋をしていたときの、彼の人様に向き合う真摯な姿勢、そして自身の人生に向き合う真剣な態度。それは多くの人から厚い信頼と人望を獲得するに値するものだったということ。その証に、一般企業に勤める会社員である彼の娘の夫でさえも、休みの日には祖父の仕事を手伝うほどだったのです。彼の葬式であれだけの参列があったことは当然のことだと思うようになりました。

 

そして、自らを否定しながら死んでいったことに対して、「断じてそんな風にして死ななければならない人間ではない!!」という激しい想いが込み上げてきたのです。

 

その瞬間の感覚は忘れもしない、普段は絶対に気がつかない私の内側の深いところで何かが静かに重く、しかしゆっくりと確実に動き始めたのです。その得体の知れない力と同時に激しい怒りと悔しさが溢れ出し涙が頬を伝ったのです。

 

■■■ 3.日本の現在地の正しい理解 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

ここからの話は、祖父が自己否定しながら亡くなっていった原因とつながる内容です。人生に対して真摯かつ真剣な姿勢態度で向き合っていたのに、なぜ否定しながら死んでいったのか。その裏には第二次世界大戦後のアメリカの日本精神骨抜き政策があったのです。

 

これはアメリカの政策のうちですが、私たち日本人は義務教育の歴史の授業では近代史を教えられていません。だから第二次世界大戦後の日本がどのようにされてきたのかを、私は知りませんでした。しかし後にその真実を知ることになったのです。

 

日本は鎌倉幕府以降、700年に及ぶ封建社会を開国、明治維新という形で終わらせました。刀をもって走り回っていた時代から、西洋のオリジナルを超える飛行機、空母などをつくってしまうような凄まじい近代化を遂げたのです。そしてその上で、アジアの近代化はアジアでやると大東亜共栄圏を唱えました。

 

これにジェラシーした西洋は、日本にその領土を手放すことを要求しましたが、プライドの高い日本はそれを受け入れず、最後には第二次世界大戦へと発展していったのです。西洋と比べたら日本は極東の小さな島国だったにもかかわらず、そのポテンシャルは凄まじく、全世界を相手に戦ったと言っても過言ではなかったと思います。それはひとえに700年間培ったサムライ精神が可能にしていたことでしょう。

 

しかしそうは言っても、さすがに世界の複数の大国たちを相手にするのは分が悪く、徐々に劣勢になり、最後は日本本土の空襲、原子爆弾投下などを経て、世間的には敗戦に追い込まれました。

 

そしてその後、日本のポテンシャルパワーを恐れたアメリカは、日本の精神を破壊するために、ある政策を通して"自分たちはいけないことをしたんだ"という強烈な自己否定と"二度と熱くなるものか"という決断を日本人の無意識に擦り込んだのです。それが東京裁判(犯罪国家として認めさせる判決)やTV爆弾投下(テレビCMなどで無意識にアメリカすごい、日本はダメだのイメージを植え付ける施策)だったのです。

 

結果、その政策は見事に成功して、日本は国をあげて自己否定をするようになったのです。

 

私はこの歴史を知った最初のうちは、そうだったのかと浅い知識のレベルでしか理解をしていませんでした。しかし、このことを無意識深くから強烈な感情を伴って理解した時があったのです。それがまさに祖父の生きる姿勢と矛盾した、自己否定をしながらの死だったのです。

 

明治維新を成功させ、世界にその存在感を知らしめた日本人の最高のプライドと、そのプライドを徹底的に潰されて自分の存在自体を否定をするようになった見るも無惨なあの姿。

 

それが分かった時に心の底から思ったのです。

 

「"二度と"自己否定をさせない!」

 

個人も日本も、"二度と"自己否定させない。内側で無意識に動き始めた得体の知れない力の正体は、この私の決断だったのです。

 

私が世界基軸教育を発信する背景②に続く