今日は読書中の NohJesu 新刊「心感覚」の感想を、途中ですがメモがてらに書いておきたいと思います。
というのも内容が盛りだくさんすぎて、メモしておかないと忘れてしまうからです。
ということで始めていきます。
今、半分くらいまで読み進めているのですが、全体を通して感じたことはいい意味で全部を「理解した」とは言えないということです。
というのは、自分自身の器次第で理解の深さが文字通り想像を絶するほど違ってしまうことが、微弱ではあるけど確実に感じるからです。羅列されている文字を読んでいる時に、底の見えない湖を覗いているかのような気持ちになり、内容に対してどんな姿勢で向き合っているのかを知らされることが何度もあったのです。
このように感じたのは、私が片手間で読んでいるからではありません。まず一つは内容の深さからくるものであることは間違いありません。しかし同時に、その内容に向き合う姿勢態度を試されていることも感じるのです。
本気だとしてもその本気がどの程度のものなのかということ、そしてその内容を受け入れられる準備がどれだけ自分にできているのかということ。それによってどれだけ理解ができるのかが決まるということをひしひしと感じました。
器は刻刻と進化します。だから一度読み終えても二度三度と時間をおいて読むのがいいなと思いました。
ではここからは内容です。
まずは今まで私たち人間は、個人の絶望をどう希望に反転するかで頑張ってきたけど、それがそもそもの間違いであって中途半端だったということ。
これがまず衝撃的ですよね。人間にとって価値のある希望を語るのかと思いきや、今までやってきたことを根こそぎ否定してしまうというこの切り出し。驚きの展開です。
そしてその前置きがありながら、本当に知らなければならないのは一人一人が自分だけの繭の中にいて、誰とも共有できないという人間共通の現在地に対する絶望なのだということ。
このことを正しく絶望することと言っていますが、個人の日常の中の体験からくる絶望ではなく、思惟(思考)による絶望へとシフトすることが二度と凹まない究極の希望へ行くことにつながるということでした。
この考え方自体が斬新すぎますね!まさに盲点だったと思います。
そしてしかも思惟による絶望なんて言われてもなかなかわからないと思うけど、それをこちら側の立場を汲み取って話を進めてくれている点。それによって自分とかけ離れて関係ないとなってしまわずについていくことができるのです。そしてなんなら先が気になって食いつくように読み進めたくなるまであるのです。
そしてさらに途中から始まる絶望バトルという章。ここからは私たちが日常でよく感じる絶望を思惟による絶望で一刀両断していく展開です。
この章の中の、人間関係の絶望のところにある言語の限界の話で感じたことですが、何気ない一言でも意図しない形に受け取られて関係性が拗れていくという話にはゾッとしました。
でも同時にそれは繭の中にいることで生じる言語の限界であって、相手や自分が悪いわけではなく誰も責めることはできないのだということ。そしてそう思った時に、それがわかればみんなで癒しあうことができて互いに人に優しくなれる感じがしました。
またさらに、人間は狩り文化DNAでポジション争いをしてる上に、出発がバラバラであるというところで、人間社会のカオスを実感しました。しかしこれもまた繭の中にいることが原因で起こってしまう苦しみなのだということ。だからいかにそこから自由になるのかが大事だということでした。
この絶望バトルの章では、よくある絶望や悩み、苦しみは全て、自分がつくっているのだということを言っています。そしてだからこそ周りに原因を見出すのではなく、自分の繭がそうさせているということに絶望することだと案内しています。
読んでいるとこの思惟による絶望を理解するために、考えたこともないような一見当然とも思えるようなことを考えさせられる場面が多々あります。そしてその度に脳に汗をかくのですが、これをより深く理解できたら半端じゃない大きな変化が期待できることも同時に感じます。
まだ半分くらいですが、後半もしっかり深められるよう集中して読んでいきたいと思います。
少し中途半端ですが本日はここまで。続きは後半を読んでから書きたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございまいた。