宇宙水準点

宇宙水準点〈世界基軸教育と令和哲学〉

令和哲学者 NohJesu と共に歩む令和維新の道〜世界基軸教育によって人類がワクワクでひとつになる〜

正しい絶望とは何か

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ご訪問ありがとうございます。

 

今日は正しい絶望について書いていこうと思います。

 

この正しい絶望を深く理解するには、まずは私たち人間の置かれている現在地を知る必要があります。

hyperconnection2012.hatenablog.com

 

そして今までやってきた自分の絶望が中途半端な絶望であることをわかること。

 

私の場合は人と一緒いても孤独を感じていたけど、それは個人的なアルゴリズムからくる絶望・苦しみであり、それは中途半端な絶望だったということ。

 

それがわかって初めて正しい絶望とは何かに関心がいくようになります。

 

正しい絶望1:正しい絶望とは

 

①正しい絶望とは体験経験による絶望ではなく、思惟による絶望。

 

体験経験による絶望とは人それぞれの苦難や苦労からくるものであり、これは中途半端な絶望です。それに対し、思惟による絶望は人間共通の絶望であり、体験経験を問わない絶望です。

 

例えば、地球は時速約10万7000kmの速さで太陽の周りを公転し、赤道上で時速約1700kmの速さで自転しています。私たち人間はこの猛スピードで動く地球の乗組員ですが、この動きは体感してはいません。しかし、体感してはいなくても私たちは地球が自転公転をしていることに何一つ疑いを持っていないことも事実です。

 

このように体の感覚を当てにしたら地球は動かないので天動説が最もですが、誰もが地動説を受け入れているのは、体の感覚で地球が動いていることを確認できなくても、思惟ができているからなのです。地球の自転公転を理解してイメージまでもができている、すなわち概念で認識できているのです。

 

これと同様に、人間共通の絶望も体の感覚を伴うことなく理解してイメージまでできることで絶望することが思惟による絶望なのです。

 

②正しい絶望とは脱出不可能な罠の中にいることをわかること。

 

例えば、野ウサギが罠に捕まるところをイメージしてみてください。「くくり罠」と言いますが、ウサギが通ると罠のワイヤーがウサギの胴体や足を括るようにして作動します。捕まってしまったウサギはなんとか脱出しようとして懸命に前に進もうとしますが、前進しようとすればするほどワイヤーが締まり逃げることが難しくなっていきます。

 

このようなイメージで、人間も実はハマっている罠の構造をわからないまま闇雲に条件反射をし続け、自ら苦しみを増大させてきたのです。そして当の本人は「これほど頑張っているのにどうして苦しいのだろうか」と苦しくなる理由がさっぱりわからない状態で、人一倍頑張った人ほど傷が深くなる傾向があります。

 

その状態で一時的な楽しさや幸せを感じては自分を誤魔化しながら頑張ってきましたが、それはもう限界であり個人も社会も臨界点ギリギリの状態にきています。熱力学にエントロピーという言葉がありますが、そのエントロピーが無限大の状態なのです。

 

このエントロピーという概念は、例えばコーヒーにミルクを入れた時、時間と共に混ざっていきますが、一旦混ざってカフェオレになってしまえば分離することはできない状態になるように、秩序から無秩序に変化して元には戻らない状態を表します。

 

だからエントロピー無限大とは、先程のカフェオレにさらにオレンジジュース、コーラ、抹茶と次々に足していってどうにもならない状態になっていることをイメージするとわかりやすいでしょう。

 

人間の脳は目標を定めてはそこに集中するという狩り型の文化DNAを持っています。一方向に流れる時間も脳の作用によるものなので、脳が働く限り前進しかありません。だから人間も罠にかかった野ウサギのように、頑張れば頑張るほど、苦しくなるしエントロピーが勝手に増してしまうのです。

 

そのように700万年間人間は脳の中で中途半端な絶望と中途半端な希望を行き来してきましたが、それは知を積み重ねては知っていることややることを多くさせて苦しみを増大させてしまう「脱出不可能ゲームの中」だったのです。

 

正しい絶望2:脱出不可能ゲームを攻略するキーワード

 

ここからはその脱出不可能ゲームを攻略するキーワードを紹介します。

 

①脳 vs 心

 

nTech では世界の限界は言語の限界と言いますが、人間の使う言語は脳の中でイメージできることしか語ることができないので、脳の外・繭の外については一切語れずその世界には到達できません。だから既存の言語の限界を補うために新しい言語であるイメージ言語が必要なのです。

 

イメージ言語は、心感覚やオール0化感覚を獲得できるための必須アイテムであり「喋っても喋ってない」「聞いても聞いてない」「存在しても存在してない」「生きてるけど生きていない」という摩訶不思議な新しい感覚を手にすることができます。言葉で表現するとその感覚が伝わりにくいですが、視覚的には見えているけど実際にはないことが認識できる感覚です。

 

ちなみに、このような話をすると、心感覚になるとオーラや今までにはない光など特別なものが見える超常現象をイメージするかもしれません。しかしそれらは既存の言語で表現できてしまう世界なので、脳の見せる錯覚に過ぎません。

 

②現実感覚 vs ゲーム感覚

 

現実は脳が見せる錯覚ゲームであり、繭の中の脱出不可能ゲームです。自分も周りの人もいかにしてこの脱出不可能ゲームから脱出するのかをゲームとして楽しむことです。

 

個人戦 vs チーム戦

 

脳は間髪入れずに罠に引き込んできます。だからその脳の習慣を超えるためにみんなでチームプレイしながら罠から脱出していくことです。

 

正しい絶望3:「床屋のパラドックス

 

ところで、「床屋のパラドックス」という矛盾は知っていますか?

 

この「床屋のパラドックス」はイギリスの哲学者バートランド・ラッセルが考案したもので、ある町の床屋の店主が「自分で髭を剃らない人の髭は全て剃る。でも自分で髭を剃る人の髭は剃らない。」というルールを決めたけど、その場合店主の髭は誰が剃るのかという矛盾を語っています。

 

私たち人類は罠の中にいることを知らないままで知を重ねることが必要だと疑わずにきました。でも知ってることが多ければ多いほど、やることが多ければ多いほど苦しみが増えてしまい、罠の中で堂々巡りをする結果になってしまっています。

 

罠から出られない理由を知る必要があるけど、それを「知った」と認識してしまったら絶対に罠の外に出られない。罠の外に出なければならないのに、「出た」と認識してしまったら罠の外へ出られないという状況に陥ってしまっているのです。

 

だから「知ること」は必要ですが、その知っている世界からは自由になって知っている世界を語る必要があるのです。繭の外、脳の外、罠の外、言語の外から全てを知り、全てを行い、全てを望むことができないと脱出できないのです。

 

だからこそ、今まで人類が開発してこなかった心感覚、オール0化感覚が大事です。見ても見ていない、聞いても聞いていない、存在しても存在していない、しゃべても喋っていない、生きても生きていないという新しい感覚をつけることです。

 

世界基軸教育・令和哲学では「目で見ちゃだめ」というキャッチフレーズをよく使います。これは目で見る今までの体感覚を卒業して、心で観る心感覚を習慣化をつけないと頭で理解しただけでは何も変わらないということを示唆しています。その心感覚については以下の記事をご覧ください。

hyperconnection2012.hatenablog.com

 

正しい絶望4:料理型の文化DNA

 

ではここからは、上でも少し触れました狩り型の文化DNAの対に当たるもうひとつの文化DNAに触れていきます。

 

ちなみにその狩り型の文化DNAは、ターゲットに集中するという人間特有の共同注視(共同注意)、そして個々人の認識の出発はバラバラという特徴があり、後者は誰もが自分の繭の中で自分だけの宇宙を見ていることに由来します。

 

この対に当たるもうひとつのDNAは料理型の文化DNAです。この文化DNAの特徴は、「料理」という言葉のイメージのように、違いを溶かして融合、再創造することにあります。

 

例えば胎児を育む子宮では精子卵子が出会って赤ちゃんが誕生します。このことは当然の事実と思われますが、実はこの現象の裏では驚くべき奇跡が起こっているのです。

 

というのは、例えばカップとペンが単に出会うだけではそこから新しい何かが生まれることはないように、精子卵子がただ単に出会うだけでは受精卵にはなり得ないのです。

 

精子卵子が、精子でもない卵子でもない心そのものに瞬時に溶けて、境界線のない心そのものになったところから受精卵が誕生しているのです。そして境界線のない心そのものから138億年のすべての歴史を辿って赤ちゃんが生まれてくるのです。

 

このように精子卵子も溶け合うということは「我(自分)」が完璧に消えてしまうということであり、体の目で見ていてはこの繊細な奇跡の世界を認識することは不可能です。

 

そしてこの料理型の文化DNAは、心感覚・オール0化感覚そのものであり、複雑でバラバラな境界線のある世界を解いたシンプルなひとつだけがある世界がベースです。だからこそ、繭の中、脳の中の複雑を制して外に出ることのできる境地でもあるのです。

 

正しい絶望5:なぜ罠が必要だったのか

 

最後にどうしてこの罠が必要だったのかについて触れて終わりたいと思います。

 

釈迦が王子の身分を捨てて出家したという話は有名です。その身分を捨てなければ何不自由なく人生を過ごすことができたのに、なぜ釈迦はその身分を捨てたのでしょうか。

 

この問いは、なぜ罠が必要だったのか、なぜ苦しい脱出不可能ゲームの設定になっていたのかの問いに繋がる質問です。

 

釈迦は出家して苦行の道を行く以上に、王子として生きることに屈辱を感じたのだと思います。人間はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、なぜ老いるのか、なぜ病になるのかなど、何も説明することができない。そしてさらには、自分が何者なのかもわからないまま生きなければならなかったことが苦痛だったのでしょう。だからあえて宮殿を出て修行の道を選んだのだと思います。

 

またスティーブ・ジョブズも、「私は持っているテクノロジーをすべて引き換えにしても、ソクラテスとの午後のひと時を選ぶ」と言っているように、大成功を納めた人間でさえ目先の問題ではなく、根本的・本質的な問題に目を向けています。

 

このような釈迦やジョブズのように、富と権力を握っていてもその立場ではその立場で欠如しているものがあったのだと思います。

 

心感覚・オール0化感覚である源泉動きも同じです。すべてが満ち足りて無限の可能性そのものではあるけど、その立場になったときにわかる究極の絶望があるのです。

 

源泉動きには境界線がないので何もイメージできなければ、出会うことも、認識することも、感じることもできません。だから一体自分がどういう状態なのかがわからないし、その状態が永遠に続く永遠不変の絶対孤独なのです。仏教用語では無間地獄と言いますが、これは仏教の地獄の中でも最も恐ろしい地獄なのです。

 

これは繭の中の罠の構造がわかって正しく絶望して、繭の外に出たと思っても外は外で中以上の絶望が待っているのだということです。だからこの「繭の外の絶望」を突破するために源泉動きが知恵を働かせて出した答えが、人間ゲームだったのです。

 

ではなぜこの人間ゲームが罠であり、苦しい脱出不可能ゲームでなければならなかったのでしょうか。

 

それは、もし人間ゲームが楽しいと「このままでいいや」となってしまい、源泉動きの限界を突破して自分がどういう状態なのか、自分が何者なのかを知るという目的が達成されない本末転倒の状態になりかねないからです。

 

だから本来の自分がどういう状態なのか、本来の自分が何者なのかを知るために、ゲーム内の人間は「なぜこんなにも苦しいのか」「そもそもなぜ生まれたのか」「私は一体何者なのか」「人間とは何なのか」について真剣に悩まなければならないのです。

 

少し話がそれますが、人間の赤ちゃんは他の動物と違って喋ることも歩くことも食べることもできない未熟で生まれてきます。

 

でもそれは周りの大人と比べていつも自分は弱者・負け組で、ショックな事件を経験することで自分を否定するためなのです。どんなに愛され、大切にされたとしても必ず自己否定のスイッチを入れるように初期設定されているのが人間だということです。

 

そして初期設定からくる体の否定を完了したら、地球が自分になります。その地球の自分を否定したら、今度は太陽系が自分になります。その太陽系の自分を否定したら銀河系が自分になる・・・。というようにこれ以上否定ができないところまで否定した時に、自分の境界線さえない否定のできない絶対自己肯定感に到達できます。

 

この絶対自己肯定感に到達した時に、源泉動きが本来の自分であることを知ることができるのです。

 

本日も最後まで読んでくださりありがとうございました。