本日も日課の令和哲学カフェに参加。
今日は自由になるための条件を各哲学者が回答していくという展開。
共同体の自由を語る堀江プラトン。
個人の自由ではなく共同体の自由。節制、勇気、知恵がバランスよくある人が優れた人であるように、国家も一般大衆すなわち生産階級の節制と軍人階級の勇気、政治家(哲学者)の知恵がそろった時に理想的な国家となる。しかしこれは民主主義とは相反し、個人の自由は認めない傾向がある。
ファクトからは意味価値が生まれない青木カント。
存在があるから認識するではなく、認識するから存在すると見方を反転させた。欲求を満たすためなどの条件付きで行動するのではなく、自らルールを立ててそれに従う意思の自律があること。これが道徳法則(定言命法)であり自由があるからこそできることである。従って自然法則からは価値が生まれない。
一番の強者を倒す熊倉ニーチェ。
神は死んだという言葉とともにキリスト教から始まる全てを否定。キリスト教によりニヒリズムに陥り無難に生きようとする末人に替わる超人を提唱。人間は動物と超人の橋渡しをする存在であり、砂漠のラクダ→ライオン→幼子(超人)のプロセスを経て超人へと至る。超人は自己ルールを確立している。
道具連関から自由になる大川ハイデガー。
現存在(人間)は存在(あらゆる存在の源泉)からの声に従って存在し、そこからのアルゴリズムと歴史的脈絡からくる実存的決断によって自由を獲得する。道具連関は社会と作用する因果アルゴリズムであり、現存在はその中で一体性を持って存在する世界内存在である。
多様な差異にフォーカスする森ドゥルーズ。
時間、空間、存在の同一性を反復して物事を把握していては自由にはなれない。同一性の反復を棄て、時間、空間、存在のわずかな差異を反復することで変化をつくって進化させること。
このようなことをみなさん語っていました。
そこからNohJesuの問いかけ。
「王の自由か、釈迦の自由か」
釈迦は周囲の人の生老病死を見て体に執着することの無意味さを知り、王子の身分を捨てて出家しました。王子を選択していたら何不自由ない生活と贅沢は約束されていた上に、気に入らないことがあれば簡単に変えることもできる身分だったにも関わらず、それを自ら手放し真実の自由を目指したのです。
そのストーリーをイメージして、王の自由を選ぶのか釈迦の自由を選ぶのか。
条件反射的に王の自由とは次元の違う釈迦の自由を選ぶべきみたいに思ってしまいがちですが、一度立ち止まって、どんな環境に身を置くかで人生が決まることをイメージするとやはり改めて私は釈迦の自由を選択したいと思います。
王ならば周りには家来や奴隷にあたる人たちがいると思います。彼ら彼女らは少なからず我慢を強いられていて、その上で王に支える状態です。その時点で建前になるのでそのような関係性は、私はやはり気持ちが悪いなと思うし孤独でしかないと思うのです。
一方釈迦の自由を選択した場合、周りにいるのは悟った人たちです。悟った人たち同士の関係性は我慢の関係ではありません。信頼しかない関係性、どこまででも透き通った壁のないみんなと繋がった関係性です。
今回のカフェではそれぞれの哲学者の語る内容を、自由になるための条件という角度から見ていきました。毎回異なる切り口で場が進むので楽しめるし勉強がはかどります。ご興味ある方はぜひご参加いただけると嬉しく思います。
本日も最後まで読んでくださりありがとうございました。