宇宙水準点

宇宙水準点〈世界基軸教育と令和哲学〉

令和哲学者 NohJesu と共に歩む令和維新の道〜世界基軸教育によって人類がワクワクでひとつになる〜

人間らしい生き方とは

みなさんは人間らしく生きる生き方とはどんなものだと思いますか?

 

たとえば幸せに生きるとか、持って生まれた使命を全うするとか、いろいろあるのではないでしょうか

 

じゃあ私が思う人間らしい生き方とはどんなものか、今を生きる私たち人間の状態とともに考えてみたいと思います

 

今現代、私たちが生きる環境はかなり大変な状態でしょう

生活するには必ずお金が必要になりますが、今の時代生涯に渡って安定的な収入が保証されているかといえば、まずそんなことはない

自分の生活を守ることで必死な人は少なくないでしょう

逆にお金がある人はある人で、いつそのお金を失うかが心配で安心できない

 

こんな風に未来に対して経済的な不安が常につきまとう状態なのではないでしょうか

 

資本主義経済が終焉に近づき、人間一人ひとりの分離断絶化が進み、隣の人に対する関心や信頼なども薄れつつある

 

だから今を生きる私たちは不信や不安といったネガティブな感情が大半をしめているのではないでしょうか

 

そんな中で人間らしい生き方とはどんなものなのでしょうか

 

私が思うにその生き方とは、日々感謝と感動を蓄積しながら、他の人と悲しいことも楽しいことも共有共感できるつながりをもって生きる生き方

 

そんな生き方がほんとに人間としての尊厳を感じながら生きる、幸福に繋がるのだと思います

 

資本主義経済の限界を突破して、このような人間らしい生き方ができる時代を nTech は案内しています

f:id:hyperconnection2012:20180925021334j:image

人間本当はすごいんだ

みなさんは人間というとどんなイメージを浮かべますか?

 

いろいろイメージあると思いますが、私は昔は結構後ろ向きなイメージでした

 

子供の頃、クラスの中でいじめる人、いじめられる人、それをみながら知らんぷりする人

大人でも支配する側の人がいれば、される側の人がいる、都合が悪いとコロコロ態度を変えたり

なぜ人間は争い、裏切り合うのか

そんなことを常々考えていたのです

 

私はこのまま人間が争い裏切りを続けるのなら人間に未来はないと思っていました

というのは人間が生きる環境が、生きていくために必要なものを確保しにくい状況に向かっているから

 

かなり極端だけど、たとえば水が手に入らないとなると必死に手に入れようとするでしょう

何かを犠牲にしてでも獲得しようとするのではないでしょうか

 

そんな風に、まだ今はそこまで極端ではないけど、貧富の格差(生活のためのお金)や資源の枯渇(生活のためのエネルギー源)など、時間が進めば進むほど状況が逼迫し、今の秩序が保てなくなる

そうなると争い裏切りはさらに顕著になってくると思っていました

 

だから人間の本質と、今の人間が生きる状況を考えたら、ざっくりみただけでも今後秩序が保てなくなるのは明々白々だと

 

じゃあどうすればこの問題を解決できるのか

本当にこの限界を突破したいのであれば、小手先の変化ではなく人間が本質的に変化しなければならない

イコールそれは人間が人間でなくなる必要があるということ

だけど、そんなことができるのか、いやできるはずがない

考え方や行動くらいは変えることができても、人間が人間でなくなることなんてできるはずがない

 

そんな経緯で私は人間に対して絶望していたのです

 

だけど、なんとそのイメージが nTech と出会って180°ひっくり返ったのです

 

なぜかというと、その nTech の案内する世界は人間の本質的な限界を明確に突破するものだったからです

そしてその nTech の中の大切なキーワードが"観点"です

 

人間を人間として存在させている初期設定のようなものがこの"観点"

人間は生まれてから死ぬまでずっとこの観点に掴まれたまま、体が自分だと思い込んで生きているのです

争い裏切りが絶えないのは、実はその体の自分を守ることで必死だからなのです

 

だから逆にいってしまえば、観点から自由になって体が自分ではなくすべてが自分という本来の自分になれれば、その限界も自然に突破できるのです

 

そしてその本来の自分というのがすごい!

体だけが自分という小さなアイデンティティではなく、宇宙空間の1垓倍大きなアイデンティティで行ったり来たりする動きそのもの

 

今私たち人間は、私たちの本質的な限界を突破して新しい時代をつくるためにも、nTech を通してその本来の自分に気づくべきときなのです

f:id:hyperconnection2012:20180925010225j:image

なにかを"やる"とはどういうことか

タイトルをみてなんのこと?って思った人は多いと思います

 

たとえば日常で仕事を頑張って"やる"とか、ちょっと手を抜いて"やらない"とか表現ますよね

 

普通に今まで通り考えたら深い意味はありませんが、それを nTech の観点から考えてみたいと思います

 

nTech では人間は観点固定されているといっていますよね

この観点とはなにかというと、ここでは人間を人間たらしめる初期設定と思えばわかりやすいでしょう

そして、人間はその初期設定から自由になれず、生まれてから死ぬまでそれに沿った考え、感情、表情、言葉、行動、人間関係を繰り返しているのです

 

楽しいことも悲しいことも、歓喜溢れることも悲惨なことも、日常的な何気ないことから非日常な出来事が起こった時の反応まですべて

なに1つその初期設定に沿わないものは無いのです

 

だから頑張ってなにかを"やった"としても、イマイチ力が入らず"やらなかった"としてもそれはその初期設定、すなわち観点に沿った結果なのです

だから本当は"やってもなければ、やってなくもない"のです

ただただその観点、初期設定に沿って反応しているだけ

いわばあらかじめ敷かれたレールの上をただ惰性で走っているかのように、当人の意思は介在していません

 

 

なんか人間、悲惨な状態になってきましたね

でも大丈夫!

それを悲惨と認識できることは逆に希望

なぜかというと悲惨を認識できた分だけ希望を獲得できるから

 

はい、じゃあ続き

 

やってもないし、やってなくもないんだったら、本当の"やる"というのはどういうことなのでしょう

 

それはその初期設定、観点から自由になった状態で、いろんな考え、感情、そして表情、言葉、行動、人間関係を選択できるようになること

これが本当に"やる"ということ

 

だから本当に"やる"のであれば、まずは初期設定、観点から自由になること、これがとっても大切なのです

f:id:hyperconnection2012:20180924175529j:image

今の時代のスーパーティーチャー

最近ある有名な先生のお話を聞きました

 

その先生によると戦前の先生と生徒の関係性は今のそれとは少し違っていたとのことでした

 

どんな風に違ったかというと、なんでも卒業した生徒が社会に出ても、困ったことやわからないことがあったらその教師のもとに戻ってきて相談したりしていたとのこと

 

その話を聞いた時私が気づいたのは、先生ってただ学問を教える人であるだけじゃなくって、人生の先生なんだってこと

そしてさらにその先生と生徒の間の信頼関係が素晴らしいなって感動したんです

 

でもそのあと思ったのは、今の時代の先生と生徒の関係と比較してみたら、今は生徒が卒業してしまえばそれっきりといった感じ

在学中も頼りにされているかといえばイマイチ疑問が残る

昔の基準からみたらちょっとさみしいですね

 

その有名な先生のお話を聞いて気づきと感動があったと同時に、今、先生とはどうあるべきなのかということを考えてみました

 

それを知るためには今の時代がどんな時代で、その中を生きる私たちがどんな状態なのかを考えるところから始める必要があります

 

今の時代はどこにでも情報が転がっている時代です

スマホひとつあればなんでも知ることができるので、知識を教えられることには大して価値がありません

そんな中、最近の学校を卒業して社会に出た人、特に若者は何をやれば満足いく形で社会に貢献できるのかわからずいつもモヤモヤ、人間関係も情報知識が増えた分、摩擦衝突が多くなって疲れてしまう

一体何が問題なのかもはっきりせず釈然としない状態

 

このような結果になってしまうのは一体何に原因があるのでしようか

 

その原因とは一人一人の人間の観点が固定していることにあるのです

この観点固定の問題を解決して知らなくていいんだ!の状態になることで、実はまったく新しいワクワクの生き方をスタートすることができるのです

 

今まではこの問題提起が明確にできなかったので、教育の問題や一人一人をはじめとした社会的な問題を解決できなかったのです

何でもそうですが、問題を解決するときは必ず最初に問題を発見しなければ始まりません

その発見した問題意識がシャープであればあるほど問題解決がスムーズなのです

 

今の時代の先生とは、この観点の問題から知らなくていいんだ!までを教えることができ、新しい生き方を案内できる人のことなのです

f:id:hyperconnection2012:20180918035106j:image

観点固定の深刻さ

今日は観点の中にとどまることがどういうことなのかを書きたいと思います

 

観点の中にとどまるとどうなるのか、わかりやすい例として、感情のコントロールができなくなってしまうというのがあります

 

例えば

強く言われると恐怖で萎縮してしまう

上司に対し拒絶反応をおこし会話にならない

何を言われても否定されていると受け取る

自分の意見を自信を持って言えない

など

 

これら以外でも、いろんなシチュエーションがありますね

そして誰しもが感情のコントロールがどうにもうまくできず、困った場面というのは経験したことがあると思います

 

大して重要ではない場面だったらそんなに深刻にはならないけど、人生の中でここぞという大事な場面はありますよね

そんなときうまくできないと大変です

 

だけど実は、それ以上に大変な場合もあるのです

 

ある場面において条件反的に感情に振り回されてしまうというのよりもさらに深刻なもの

それはある条件でという特定の場面だけでなく、例えば、無条件内に籠ってしまうなど

条件状況関係なくどんなときも思うようにならない状態

 

この状態だと、ある条件になると大変だからっていってその条件を避けることもできないし、常に苦しい状態が続いてしまいます

 

内に籠っていれば、内側にある気持ちを伝えようとして言葉にしても全然伝わらないし

そんなつもりじゃないのに勝手に思わぬ方向に現実が動いていってしまう

そうじゃないんだ!って頑張って行動してみても自分も周りも苦しくさせてまうだけ

やればやるほど首を締めて、こんなんだったらもう何もしない方がいいんじゃないだろうかって思うほど

もちろん大事な場面でも思うようにいくはずがない

 

そして1人孤独感と不甲斐ない気持ちばかりを蓄積していく、、、

 

私は、人生送る上で苦しい時うまくいかない時にこそ、どれだけ頑張れるかでその後が決まると思っている

だって楽しくやれる時はいくらでもやれるから

そんな、苦しいけど、うまくいかないけど大事な局面で観点に阻まれて失敗するようでは人生本当にどうにもならない

観点から自由になれないということが人生にどんな影響を与えるのか、その深刻さは救いがないといっても過言ではないだろう

 

そんな観点固定の絶望がわかれば、観点から自由になって生きることがどれだけ価値のあることなのか、その生き方がどんなに可能性を花開かせることができるのかがよくわかりますね

 

その観点から自由になった生き方を案内するのが nTech なのです

f:id:hyperconnection2012:20180917194123j:image

現実世界は矛盾を孕む

小学生の時、理科で人間は物体にあたって反射した光をみているって習いましたよね

 

それをもとにこんなことって考えたことありませんか?

 

物体に反射した光をみているのなら、その光を反射している物体ってなんなの?

身の回りの存在すべて、自分さえも反射した光によってみせられているものなら、自分が見ている世界は真実には一体どうなっているのか?

 

実際のところ、光の反射しかみていないから5感覚の目がとらえる存在は、真実には目で見えるようには存在していないということになりますね

 

『本当はそのようには存在しないのに、存在しているように見える』

 

これだけでも大きな矛盾がありますね

 

じゃあもっと身近に、別の角度から現実世界の矛盾を考えてみましょう

 

人間は観点固定しているというのは nTech では朝飯前ですね

その観点、言い換えるなら"道"に沿って人間は考え•感情•表情•言葉•行動•人間関係をやっています

どんなに些細なことも、どんなに偉大なこともすべてその"道"に沿った自然発生的な結果なのです

 

じゃあそこから悟りの道を案内することをイメージしてみましょう

 

悟りの道を案内"できる"ということは、その人にはその観点、すなわち"道"があるから"できる"ようになるのです

 

ところが実はそこに盲点があるのです

それがなにかというと、その"道"があるがゆえに"道"がないということがどういうことかがわからなくなってしまうのです

 

"道"がないということがどういうことかわからない状態で"道"、すなわち観点のことを語らざるを得なくなる

だから悟りの道を案内"できる"人という時点で説得力が下がってしまう

 

簡単に文字で言ってしまえば

"できる人"は"できない人"になってしまうのです

 

こんな風に矛盾が生じているのです

 

はい、ここで書くの辞めちゃってもいいんですけど、結構後味悪いんで(笑)続きはおまけで書きます

 

どうしたら本当に悟りの道を案内できる人になれるのかですが、、

 

それは、道がないとはどういうことなのか、道があるとはどういうことなのか、道がないことも、道があることも両方を語れるようになること

 

nTech ではよく言うけど、対称性の対のどちらも選択できるようになった次元上昇した観点に立つ必要があります

どちらか片方だけに固定されていては理解しているとはいえないのです

 

そして次元上昇した観点に立った時、"できる人"以上に"できる"ようになるのです

f:id:hyperconnection2012:20180912161547p:image

強い人ってどんな人?

強い人というとみなさんはどんな人をイメージしますか

 

力のある人とか

我慢強い人とか

いろいろ思い浮かびますね

 

たとえばアニメの中で勧善懲悪のストーリーがよくありますが、今日はそこから得たヒントをもとに書いてみたいと思います

 

勧善懲悪のストーリーのアニメの中だと、初めは悪の方が強かったりしますよね

そしてだいたい悪の方は最初は純粋無垢な存在、だけど途中大ショックな出来事があって悪の路線を選択、以来そのショックだった感情をモチベーションにのし上がるみたいな、、

 

一方善はというと、悪と同じようなショックな出来事を経験しているがそれに屈せず生きる

そして最初は力的には悪に負けるも、あーじゃらこーじゃらして最後には力でも悪に勝つ

そこでお決まりなのが、最後の戦いの時に悪側の過去の決断を否定、悪側はその愚かさに気づきそのあり方を正されるみたいな、、

最初は力の強さが強調されているけど、最後は意思の強さが勝る

 

まあだいたいそんな感じの大枠がありますね

 

そしてポイントは悪と善を分ける基準

環境に準じて生きるのか、環境を変化させながら生きるのかの違いです

悪は過去の大ショック事件で悪になることを決断、善はその事件があってもそれに屈せず、むしろそれを自ら解決しようと努める

 

それらは簡単に言えば準じる意思か、準じさせる意思かの違いだと思う

環境に染まろうとする意思か、環境を染めようとする意思か

その違いでしょう

 

そしてここまで言ってしまえば、染めようとする意思が勝つのは明白ですよね

だって染まろうとする意思と染めようとする意思ですから

 

そして悪の場合、その染まった結果の上に力の強さがあるわけなので、そのもとにある意思さえひっくり返してしまえば力の強さはどうにでもなってしまう

 

これが善の染めようとする意思の勝ち方なのだと思う

 

力の強さは意思の強さに負けるということ

 

だから本当に強い人とは意思の強い人のことをいう

f:id:hyperconnection2012:20180831031155j:image