今日はスッタニパータ犀の角の解析をやっていきます。
こちら全41句からなる詩句集ですが、なんと今回で最終回です。毎回2句ずつ解析すること20回。思いついた時にブログにしていたので、そんなに大変だった記憶はないですが、釈迦の生きた時代をイメージしながら文章を書くこともあったので、その意味では楽しく書けたと思います。今日最後の1句をやってめでたく終わりにさせていただきます。
それでは恒例のなぜスッタニパータを解析するのかについてですが、その背景はこちらをご覧ください。
hyperconnection2012.hatenablog.com
今日解析する最後の詩はこちら。
75. 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益を目指さない友は得がたい。自分の利益のみを知る人間はきたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
この詩の意味は読んでそのままの意味だと思います。
ただし最後の1文にある犀の角のようにただ独り歩めをどう解釈するかで、何を表現しようとしていたのかが変わってきます。
nTech ではこの犀の角のようにただ独り歩めは、真理そのもので生きることを言っていると解釈することができます。
そして釈迦やその他聖人と言われた人たちがそうだったように、真理そのものになってしまったら私利私欲にハマって自分の人生のために選択するのではなく、その獲得した真理を伝播していく選択をするようになると思います。
そしてその真理を獲得した観点から見たときに、真理のない人は自分の要求を満たしてくれるか否かの基準に執着して、生きるのに必死になっているのだということです。
この自分の要求というのは、 nTech でいうだいたい0歳から6歳(12歳)でつくられる無意識エンジンによるものです。人間だったら誰しもがそのエンジンを持って無意識に日常の選択を繰り返して生きているのです。
例えば「私は愛されない人間だ」という無意識エンジンがあったら、愛されるために無意識に必死に行動(選択)しようとします。その行動をもとに人間関係を構築していくので、うまく合致する人と出会えたなら関係構築ができるように見えますが、そうでなければうまくいきません。
関係構築ができているように"見える"と言ったのは、うまく合致する人も表面上うまくいっているだけで、実は互いの要求が互いの行動に一時的に一致しているだけなのです。だから条件状況によって簡単に壊れてしまうし、それによって期待しては裏切られることを繰り返して、人によっては人間関係に疲れてしまうのです。
このように誰しもが要求し合っている状態をみると人間関係はもうカオスでしかありません。
このことを釈迦は自分の利益のために交わりを結び、他人に奉仕すると言っているのでしょう。人間だったら誰しもがそうなので、利益を目指さない友もいるはずもありません。だから真理から見たらきたならしいと表現するのも頷けます。
それでは今日はここまでにしたいと思います。スッタニパータ犀の角は冒頭にも言ったようにこれで終わりですが、ブログ自体は今後も続けていくのでぜひよろしくお願いします。
本日も最後まで読んでくださりありがとうございました。