お久しぶりのスッタニパータ犀の角です。
このところ、Dignity 2.0国際カンファレンスが今週末に迫っていることや、NohJesuを直接発信していくことに力を入れているので、少しお休みしていましたが、このスッタニパータ犀の角の解析も彼の話から始まったものなので、隙あらば書いていきます。
解析を始めた背景はこちらからご覧いただけます。
hyperconnection2012.hatenablog.com
61.「これは執著である。ここは楽しみは少し、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は犀の角のようにただ独り歩め。
基本的にはこのスッタニパータはブッダの弟子たちが書き記したものと言われていますが、そこに記されている言葉の中には、ブッダが悟りの世界を語るために例えとして使った言葉が含まれているようです。
今回の魚もその一つです。仏教における魚は自由のシンボルと言われているので、おそらくブッダは、自由という意味あいで魚を例えに使ったのだと思います。そしてその自由とは煩悩に縛られることのない真理そのものを言っているのでしょう。
そのように考えると、61.は執着は自由を縛り付けるもので苦しみになる。このことをわかって賢者は犀の角のように真理になって歩め、といった意味でしょう。
nTechからみたら、因果の中にいては絶対的真理と出会うことはできないと言います。この因果の世界は、執着が生まれる世界でもあり、苦しい世界です。その因果の世界が大自由の心を閉じ込めてしまっているのです。
9禅定の8段階、非想非非想処までは因果、1:1の対称性があり自由が縛られてしまいます。nTechではこの1:1の対称性を中と外を行き来する動きと言っていますが、9段階になって初めてその因果から解き放たれて大自由の心、絶対的真理そのもので生きることができるようになるのです。
62.水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
こちらも魚が出てきていますね。魚が網を破るという表現などは、魚が自由の象徴であることが伺える表現ですね。
ここの網は61.と絡めて理解すると、魚を釣る釣り針と同義であり、執着ともとれますね。だから魚が網を破るというのは、絶対的真理が執着に打ち勝つことを意味しているのでしょう。そして、火が戻ってこないというところも、破れた網が戻らないのと同じ意味だと思います。
だから魚が網を破るように、焼けたところに火が戻らないように、煩悩に打ち勝って真理そのもので生きろ、といった意味でしょう。
nTechでは解体という言葉をたまに使います。目の前の存在はもちろん、考え・感情・言葉などあらゆるものを解いてしまうイメージで使うのですが、それが一度解けてしまうと、観念が消滅してしまって2度と戻ることはありません。(もちろん5感覚では目の前の現実を認識してはいますが、そこに囚われなくなります。)
このように諸々の煩悩の結び目(目の前の存在はもちろん、考え・感情・言葉など)を解き切って、真理そのもので生きる道を案内しているのがnTechでありNohJesuなのです。
本日も読んでくださりありがとうございました。