宇宙水準点

宇宙水準点〈世界基軸教育と令和哲学〉

令和哲学者 NohJesu と共に歩む令和維新の道〜世界基軸教育によって人類がワクワクでひとつになる〜

帰納推論と演繹推論

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今日の朝NohJesuから話がありました。

 

日本を目覚めさせるキーワードは何か。それは帰納推論と演繹推論だということ。帰納推論とは多くの事例から一般論を導くものであり、演繹推論とは普遍的な事実から結論を導き出す思考方法ですが、帰納推論には限界があるとのことでした。

 

例えばブラックスワンで有名な話で、人が確認できる白鳥が全て白かったという事実から白鳥は白いという固定観念ができたけど、あるとき黒い白鳥が見つかったことでその因果が崩れたということがありました。このように帰納推論では、ある限られた範囲内ではそれは正しいとなりうるけど、全ての場合において必ずしも正しいとは断定できないのが特徴です。

 

私はよくこの帰納推論を使って物事を考えてきましたが、この時点で私の考えの前提が崩れたわけです。そしてそれに気づいた時、一体私は何を根拠に思考を展開すべきなのか、とモヤモヤが止まらなくなりました。

 

そんな時にそのモヤモヤを吹き飛ばしてくれたのが真の問題意識と出会う11段階でした。

 

人間は部分を見て聞いてそれが絶対だと思い込む存在です。だから人間の思考はすべて帰納推論であり常に確実性に欠け、だからこそ途中まではモヤモヤが止みませんでしたが、なぜ人類が限界を迎えているのかの原因がSV言語にあるというところでハッとさせられました。

 

例えば「人間は生まれる」と言った時、それは普遍的な因果だと思われやすいでしょう。しかし人間とは私たちが生まれて間もない頃に教えられた概念であり、究極の本質から見たときには人間という存在は存在しておらず、その因果の普遍性は根こそぎ失われるのです。このことは「人間は生まれる」という因果はSV言語によって規定されているものであり、究極の本質のごく一部の現象にすぎないということです。

 

この、人間から見たら普遍的な因果であっても究極の本質から見たら一つの現象でしかなく普遍的ではないという関係性は、現実(究極の本質を絶対世界とすると現実は相対世界)の中で例えば「Aさんは生まれた」「Bさんも生まれた」「Cさんも生まれた」という因果から「人間は生まれる」という因果が導き出された時の、複数の特定の事例とそこから見たら普遍的な一般論の関係性と同じです。

 

このように、同じ「人間は生まれる」という因果でも、現実の中から見るのか究極の本質から見るのかで普遍的と言えるか否か、答えが変わってしまうのが帰納推論なのです。

 

以上のように、一見80億人が認める普遍的な因果であってもひっくり返されてしまう可能性があるのは、人間が自分たちの壮大な約束体系であるSV言語を使っているからであり、そうであるうちは帰納推論の域を脱出することはありません。

 

話を戻すと、私がモヤモヤしたのはSV言語を使って考えていたため常に不確実性が付き纏っていたからでした。そしてそれがわかったら、そのSV言語を超えた先、帰納推論を超えた先にある演繹推論(究極の本質から始まる論理展開)とはどういうものなのかという疑問が生まれました。

 

それが、異質な3つの次元をつなぐ世界だということ。純度100%の心の動きのスピードそのもの、0=∞=1のデジタル言語による論理展開なのです。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。