今回もNohJesuからあったスッタニパーダ"犀の角"の解析をしていきたいと思います。
解析するに至った背景はこちらからご覧ください。
hyperconnection2012.hatenablog.com
39.林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め。
この詩句では特に難しい言葉はなく、おそらくそのままの意味でしょう。鹿が食べ物を求めて自由に動き回るように、賢い人は独立を目指せと。ただし、釈迦は自灯明、法灯明を説いているので、現代に当てはめるなら、単に他人に頼らず独立して自分の人生を行けとだけ解釈するのは浅いと思います。
経済活動で言うならよく独立して自分の会社をもつとか考えがちですが、何から独立するのかを法灯明の観点で考えると、"法"というのは絶対的真理のことなので、相対真理の世界から独立することだと言えます。
会社に従属する生活から独立するのはもちろんのこと、自分の大切にしている友人、恋人、そして物事、さらには自分さえも手放してしまうこと。これが本当の意味での独立自由なのです。
nTechではその相対世界から自由になって絶対的真理と出会ってどう生きるのかを案内していますが、それが法灯明、自灯明の世界であり、真の独立自由を案内しています。
40.仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねに人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め。
こちらは仲間の中にいたら何をするにも声をかけられる。他の人に従属した生き方をせず、独立自由を目指せと言っていますね。
この詩文ではお釈迦様が何を言いたかったのか、一般的な解釈でもその真意を考察する余地があると思います。というのも、ここでいう独立自由というのは文脈からして仲間との関わりをなくして孤独になることともとれる一方で、仲間の中におりながらも本当の意味で独立自由を選択しなさいという意味でもとれるからです。
前者で解釈するなら、確かに人といれば常に影響を受けるし、ともすれば悪い影響さえ受けることもある。だからこそ他人に左右されず我が道を行くために、仲間の輪から出て孤独に生きろということでしょう。世の中にはこのような解釈をして実践行動している人もいるかもしれません。
しかし、それは現代では現実的ではないでしょうし、人間は生きる以上最低限の人との関係性が必要になります。そして何より悟りの道を行くためにみんながみんなそれを実践するとなると無理が生じます。
では後者はというと、仲間の中にいながらにして従属しない生き方、我が道を行く中で声をかけられても影響を受けない状態になれということ。もっといえば、仲間との間でどんなに行く手を阻まれることがあっても足を引っ張られない状態になれということだと思います。
それがどういうことかというと、お釈迦様のいう法灯明、nTechでいう心の健康状態、いつ何時もゲーム感覚で生きることです。そうすることで、仲間の中にいても無理矢理我慢して合わせて演技しなくてもよくなります。そしてそれが他人に従属しない本当の意味の独立自由なのです。
後者の解釈では、このように仲間の中にいながらにして真の独立自由の状態で生きろと言っているのだと思います。
本日もありがとうございました。