今日はお久しぶりのスッタニパータ"犀の角"の解析をやっていきます。
一般的にはあまり知られていないであろうこのスッタニパータ。なぜ今このあまり一般的ではないスッタニパータを解析しているのかについて以下のページで書いています。よろしければご覧ください。
hyperconnection2012.hatenablog.com
それでは前回の犀角の解析の続きから行きたいと思います。
67.以前に経験した楽しみと苦しみを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
この詩文は釈迦が王子の身分で王宮にいた時と、出家して苦行をした時のそれぞれの感情を捨てて、瞑想の静寂と安寧を得よと歌っていますね。
釈迦は、王宮では人、モノ、お金、全てが揃った環境で暮らしていて、何ひとつ不自由のない生活をしていました。詩に出てくる楽しみや快さとは、この王宮にいた頃に味わっていた感情を表現しているのだと思います。
そして、そんな富に囲まれた生活をしていても、そこには本当の幸せはないと考えた釈迦は悟りの世界を追求して出家し、苦行を繰り返す日々を送ったと言われています。苦しみや憂いとはその苦行の中で味わった感情でしょう。
このように、楽しみや快さに入り浸った環境では悟れないし、だからと言って苦行したら悟りを開けるのかといえばそれも違う。このことに気づいた釈迦は、最後には瞑想でその悟りの世界を追求することにしました。
結果的に釈迦は瞑想で悟りを得たことから、この詩では悟りに到達できないようにさせる楽しみや快さ、苦しみ、憂いを捨て去って、静寂と安寧でリラックスした状態になりなさいと言っています。
nTech ではこの体が自分だと思っていては悟れないと言い切っています。楽しみや快さ、苦しみ、憂いといった感情は、まさに体を自分と思っていることが大前提にある感情なので、まずは自分の体と自分の見ている認識画面を解くことが必要です。
それらを解き切った時に、ひとつだけがある源泉動きになり、犀の角のようにただ独り歩む究極の悟りの世界に到達できるのです。
68.最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
意味は読んだそのままの意味だと思います。大まかにいうと、犀の角のように一直線に定めた目標に向かうことを勧めている詩です。
nTech からみたら、犀の角のようにただ独り歩めというのは源泉動きに溶けてしまって1だけで生きろということです。源泉動きそのものになってしまうと、侍の刀の刃の上に立つように、一直線で選択の余地はなく、実践行動あるのみになります。その実践行動の中で、限界と出会ってはその限界を突破することを常に常に繰り返すようになります。
努力策励、怯むことなく、怠ることなく、堅固な活動をなし、体力・智力を備えなどのさまざまな言葉は、源泉動きに解けて実践行動をするときの特徴を表現しているのだと思います。
本日も最後まで読んでくださりありがとうございました。