私は3日目にカール・ヒルティの幸福論についてプレゼンをさせていただきました。
やってみての感想は、ヒルティの真意はわからないということ。
というのは、今回私がプレゼンのために読んだ本は、ヒルティの幸福論をわかりやすく要約した書籍でしたが、読んだときに要約した著者の観点が入っていて本当に伝えたい詳細がわからないことに気づいたということです。
これは要約ではなくとも、原文を日本語訳したものであっても同じです。そもそも2言語間の一致しない微妙なニュアンスのズレをどう埋めるのかの問題は、はっきりいうと解決不可能でしょう。
そしてさらには、原文そのものを読んだとしても、どこまでヒルティの目線と同じ目線で彼の見ている世界を見ることができるのか。少し話が拡張していますが、私にとっては大事なことなので進めていきます。
これは結局何が言いたいのかというと、自分の言語のイメージで読んでいては、ヒルティの言いたいことが何なのかは決してわからないということです。
例えばリンゴという単語を聞いて、ある人は真っ赤なりんごを思い浮かべるけど、ある人は青いりんごを思い浮かべるかもしれません。そしてまた別の人はApple社を連想するかもしれないし、ビジュアルではなくて甘い香りをイメージする人もいます。このようにたった単語1つだけで思い浮かべるイメージは人の数だけあるのです。
そう考えると、もしかしたら自分の勝手な理解に留まってわかる必要すらないのかもしれないと思うほどです。実際私はそう思ってモヤモヤとした気分になっていました。
そのモヤモヤ感をそのままにしておくのは気持ち悪く、ちょうど最終日の昨日に NohJesu に質問する機会があったので、そのことを聞いてみました。
そうすると、問題はどこまでの人と共有したのかということでした。
自分1人の理解だったらどんな理解でもいい。でも10人と共有しようと思えば少し勉強しないといけないし、100人だったらもっと勉強しないといけない。1000人だったらさらに様々な情報知識を取り入れて説得力をつけなければならない。そしてもっといって世界人口78億人だったら・・・。
器が小さいと自分の観点しか見れない状態なので、いろんな人の観点を取り入れて、究極は観点がない状態、観点が無限大ある状態、観点がひとつしかない状態を自由に行き来できるようになること。それは悟って I am が変わってしまう世界にいくことでもあるということでした。
なるほど、今の私にとってはまさに最高の回答であり、それがそのまま気づきになりました。去年末のあるきっかけから蓄積が起こってますが、1段階これで次のステップに進めます。
創始者のNoihJesu氏、カフェを運営してくださったみなさん、出演者のみなさん、本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
久々の投稿になりましたが、本日も最後まで読んでくださりありがとうございました。